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レイモンド・チャンドラーの深い洞察:「長いお別れ」における「golgfing money」の言葉遣いと現代社会への影響

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「大統領の”golfing money”で貧困救済を」というタイトルの投稿をネットで読んだ。
投稿内容は大統領がゴルフをするために、ジェット機(golfing flights)を飛ばしたり、警備を雇ったりするためにたくさんのお金がかかる。そのお金で貧困を解消できるのではないか。といったとこである。

Letter: Use Trump's golfing money to aid poor
To the editor: President Trump is the most expensive president our taxpayers have ever had to support. His documented tr...

これを読んで気になったのは、”golfing money”という言葉だ。どこかで見たような気がする。
そうだ、小説に出てきた言葉だ。
アメリカの作家レイモンド・チャンドラー(Raymond Chandler) の『長いお別れ』または『ロング・グッバイ』英語原題: The Long Goodbye (1953年)の第1章に出てくる言葉だ。
第5パラグラフの第3センテンスに”golfing money”は出てくる。

本文から引用すると、

“At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.”

(ザ・ダンサーズは品性を欠いた成金連中や御曹司達の溜まり場で、店はそんな客たちの扱いには手慣れていた。)

パッと日本国に訳すと上記のようになるが、色々考えてみると奥が深い一文だと思う。

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チャンドラーのgolfing money を日本語訳してみる

文は”At The dancers”という前置詞句で始まる。
よって次に来る”they”はザ・ダンサーズという店自体、そこで働いている人、そこに客として来る人を表す。
次の”get”だが、ここではその組織の外側から内側に連れて来るという意味になるので、次に来る目的語の”the sort of people”はダンサーズに来る客を指す。
また”get”にはunderstand「分かっている」という意味もある。
以上2つの意味から、店にはその類いの客が頻繁にやってくるので、そういった類い人達のことを分かっていた。つまり、その手の客の扱いに慣れていたという意味も出てくる。
この前のセンテンスでは、助手席の女性が駐車場係員を睨みつけ、係員はまったく動じなかったと記述がある。
それにより、前文と”At The Dancers”以下の文とのつながりが出てくる。

“At The Dancers they ‘get’ the sort of people〜”という文で、
動詞”get”を”have”に変えてみると、
“At The Dancers they ‘have’ the sort of people〜”となり、’the sort of people’が店側の人というか、店という組織に所属している人、つまり従業員、ここでは駐車場係のことを指すことになる。

原文では”get”が使われているので、the sort of peopleは客だとわかる。

“the sort of people”を”that”で受けて、その類の人たちがyouをdisillusionする。disillusionはcollions dictionaryによると、

“If a person or thing disillusions you, they make you realize that something is not as good as you thought.”
となる。

“人や物事がyouをdisillusionするとは、それらがあなたに”何か”が思ったほど良くないと悟らせること”となる。
この文で”何か”とは、金持ちのこと。
人にはお金持ちは品性を伴うものという”illusion”があり、それを壊されるという意味というより、ここでのdisillusionは自分が想像したより酷いということが実際にわかるといった意味だろう。
たしかに、お金持ちは品格を伴うという良い幻想を抱いている人もいる。たが一般的には、世間一般でそういった成金連中に良いイメージを持っている人は少ない。
人は金持ちには元々あまり良いイメージ抱いてはいないが、ザ・ダンサーズでその実態を目の当たりにし、
その”illusion”をれっきとした現実として認識するに至るといった意味だろう。

そして次につながる前置詞aboutの目的語はwhatだ。
whatはthe things whichに置き換えられる。
英語の語順通り、”a lot of golfing money”を主語にこの名詞節を訳すと、

「たくさんの遊ぶ金が人の性格に対してやること」
となり、この文を逆に人の性格を主語に書き換えると、

「人の性格がたくさんの遊ぶ金でやられてしまうこと」
となる。

「遊ぶ金で人の性格がやられる」とは、具体的に本文中で酔いつぶれたテリー・レノックスがロールス・ロイスのドアから脚を外に出してぶらぶらさせていたり、シルビア・レノックスが駐車場係を睨みつけたりするといった有様を表す。
実例を挙げれば他にもたくさんあるだろうが、本文中では以上二点がその具体例である。
普通、お金は人間が使うもので、お金が人間を使うのではない。
残念ながら、世間にはその関係が逆転し、お金に使われ、動かされている人達がいる。
“a lot of golfing money”とは文字通りたくさんの遊びに使うお金、飲みに使うお金などを指しているが、同時にそのお金を使う人、つまり成金連中や御曹司の類を表してもいる。
その種の人たちのことを”golfing money”と呼んでからかっている、或いは揶揄しているのも面白い。
さらに、
“what a lot of golfing money can do for the personality” という節の中で主語は”人”ではなく”a lot of golfing money”である。人とお金の関係が逆転して表現されている。そうすることで、お金によって人が動かされたり、どうにかされたりするといった意味がでてくる。
以上のことを踏まえて日本語訳してみると、

「ザ・ダンサーズはたくさん遊びに金を使って人格をやられてしまった成金連中や御曹司達の溜まり場だった。ここに来ればその実態がわかる。」
となる。

ここでの問題は、’get’には「分かる」という意味もあり、この文中の’get’にもその意味が含まれているということだ。
しかし、このように日本語訳してしまうと、このセンテンスで使われている”get”の持つ「分かる」という意味が出てこない。
その結果、前文で駐車場係員が女性の刺すような視線に対して無反応だったことと、うまくリンクしなくなる。やはり、日本語訳には、”get”の持つ「分かる」という意味も含めたい。

“disillusion”を金持ちの性格に対して幻滅すると捉えると、一般に思われている「金持ちは立派な人格も持つ」という考えを一蹴するという意味が出てくる。よって以下のような英語表現で言い換えることも可能だと思う。

“The Dancers was frequented by the nouveaux riches with the personality damaged by a lot of money.
What they do at the club is just disillusioning you from stereotypical views on rich guys. However, the employees get used to dealing with these sort of people.”

「ザ・ダンサーズは大金を遊びに使って人格を損ね品性を欠いた成金連中の溜まり場で、彼らのクラブでの行いを見れば、金持ちに対する幻想が一蹴される。従業員はそんな連中の扱いには慣れていたが。」

以上のように日本語訳を書くと少し冗漫な感じがする。やはり原文には原文の意味があるし、書き換えてしまうとそのニュアンスは失われる。

レイモンド・チャンドラー(Raimond Chandler) のThe Long Goodbyeはペイパーバックで読めるが、Amazon Kindleなどの電子書籍でも読むことが出来る。またネット上では下記のbiblio.wikiでも公開されている。

https://biblio.wiki/wiki/The_Long_Goodbye

是非、まず最初に原文のまま読んで見ることをおすすめする。

The Long Goodbye(『長いお別れ』/『ロング・グッドバイ』)における語り(narrative)の問題

この小説は私立探偵(private-eye)フィリップ・マーロウの語りでストーリーはが進行する「”I” novel」で、一人称の語りで地の文が書かれている。
小説は地の文(descriptive text)と会話(dialogue)で織り成されている。

“At The dancers〜”を含む段落、パラグラフは地の文だが、この小説内の語り手は”I” つまり、私立探偵フィリップ・マーロウかというとそうでもなく、”l”の背後に置かれた全能の語り手(omniscient narrator)とも呼べる内なる声、心の声によって叙述されていると言える。
作品を読んで行くと、”l”(フィリップ・マーロウの視点からの語りなのか、それ以外の視点からの語りなのか、区別がしづらい部分が多々ある。

この辺りも、レイモンド・チャンドラー 作品中『長いお別れ』または『ロング・グッバイ』原題: The long goodbye (1953年)はチャンドラー の新境地を切り開いた作品であり、探偵小説を超えた文学作品として評価される理由の1つだと思われる。

The Long goodbyeのチャプター1の第5パラグラフもその1つで、”I” ( フィリップ・マーロウ)の視点で語られていないし、”The girl” の視点や “him” (駐車場係員)の視点から語られているのでもない。

“l”(フィリップ・マーロウ)及びその背後にいるこの作品の作者(レイモンド・チャンドラー )の中間的な場所に立っているナレーターが語っていると考えられるが、どちらかと言えば、その語りの視点は駐車場係員に寄っている。

チャンドラーの作品は世界各国で翻訳されている。次回はアジアやヨーロッパ諸国で、The Long goodbyeの第1章の第5パラグラフがどう訳されているのか見ていきたい。
もちろん日本語にも訳されているので、それも興味のあるところである。

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