赤坂――政治、経済、メディアが交差する東京の中心地。その一角に、かつて「プランタン」という名の純喫茶が存在していた。駅から離れた裏路地にひっそりと佇み、通りがかりの人が偶然見つけることはほとんどなかった。それでも、店は確かに存在し、朝の一杯や午後の休息を提供しながら、静かに時を刻んでいた。
しかし今、その喫茶店はもう存在しない。ビルは解体され、跡地には新しいマンションが建っている。まるで最初から存在していなかったかのように、「プランタン」の名も姿も、街の風景や人々の記憶から静かに消えつつある。
けれども、Googleストリートビューには、その姿が今も残っていた。時が止まったかのように、入り口の赤いマットやガラス越しのロゴが、確かにそこにある。この記事は、その喫茶店がどこにあり、どのように消えていったのかを記録に残そうとする試みである。
もくじ
知られざる場所にあった店
「プランタン」があったのは、赤坂4丁目の裏通り。赤坂見附駅から徒歩5分ほどとはいえ、その存在を知っていないとまず辿り着けないような、目立たない場所だった。外堀通りや赤坂通りといった幹線道路からは離れており、喧騒を一歩外れた細い角地に、その喫茶店はひっそりと店を構えていた。
看板には「Coffee & Drink プランタン」の文字。緑と黄色のラインに囲まれたそのロゴは、どこか昭和の香りを残しており、洒落た名前とは裏腹に、古き良き喫茶店の風格を醸していた。店頭には小さな植え込みがあり、入り口には赤いマット。立て看板に「おしながき」と書かれた木製のメニュー表示が立っていた。
その立地ゆえ、インターネット上に残された情報も極めて少ない。口コミサイト「食べログ」にわずかなレビューが残るだけで、SNSでも話題にされることはほとんどなかった。「隠れ家」という言葉が陳腐に聞こえるほどに、この店は本当に、街の陰に隠れていた。
だが、だからこそ――この喫茶店の記憶は、かえって強く心に残る。
Googleが捉えた赤坂プランタン最後の姿
「プランタン」がこの地にあったという確かな証拠は、今となってはGoogleストリートビューの中にしか残されていない。
ある地点――港区赤坂4丁目2-23を表示すると、なぜか7年前のまま更新されていないビューが現れる。そこにはまだ「プランタン」が営業中のように佇んでおり、ガラスに金文字で書かれた店名、植え込み、赤い玄関マット、そして木製の立て看板がそのまま残っている。まるで時が止まっているかのようだ。
本来であれば、ストリートビューは一定の周期で更新され、再開発の様子や新しい建物に置き換わる。しかし、なぜかこの一角はGoogleの車が再訪せず、そのまま7年前の風景が凍結されている。言い換えれば、「プランタン」という喫茶店は、現実からは消えてしまったが、デジタルの地図の中には今もなお存在している。
スクリーンショットに収められたその姿は、静かで、ささやかで、それでいて何かを訴えかけるような力を持っている。誰にも気づかれず、語られることもなく幕を閉じた店が、たまたま通りかかったGoogleの車によって記録された――それはまるで、忘れ去られた風景にそっと光を当てるような行為にも思える。
解体と建築計画
プランタンの静かな終幕を告げたのは、一枚の掲示だった。2018年10月2日付で貼り出された「解体工事のお知らせ」には、地上3階建ての建物を取り壊す旨と、その着工日が明記されていた。工期は同年11月1日から17日まで――わずか2週間のうちに、この喫茶店は跡形もなく消えてしまった。
その横にはもう一枚、「建築計画のお知らせ」が掲示されていた。そこには、跡地に地上7階建ての共同住宅が建設される予定であることが、淡々と記されている。建築主や設計者、延床面積や用途など、冷たい数字の羅列の中に、「プランタン」という名前はどこにもない。
写真に残された掲示には、工事に関する事務的な言葉が並んでいる。石綿除去の措置、騒音への配慮、周辺住民への案内――それらはいずれも必要な情報ではあるが、「ここに喫茶店があった」という事実には一切触れていない。まるで最初から、なにもなかったかのように。
だが、たしかにそこには、「プランタン」があったのだ。
再開発された“いま”の姿
現在、その場所には新築のマンションが建っている。外壁はグレーのタイル張りで、整備された植栽と駐輪スペースがエントランスを彩っている。どこにでもあるような、しかし赤坂という地名にふさわしいスタイリッシュな佇まいだ。
「プランタン」の面影は、どこにもない。
かつて看板が立っていた場所には植木が並び、ガラスに描かれていた店名はコンクリートの壁で覆われた。赤いマットも、立て看板も、喫茶店特有の柔らかい光も、すべては都市の整然とした風景の中に飲み込まれてしまった。
しかし、不思議なことに――2025年に、この地点を丹後坂方面からのGoogleストリートビューで見ようとすると、いまだに「Coffee &Drink プランタン」が表示されるのだ。3年前に更新された周囲の道と異なり、この一角だけが時を止めているかのように、この画角だけは更新されずに7年前の景色を映し出し続けている。
現実と地図情報が食い違うその瞬間に、ある種の違和感と感慨が入り混じる。この場所には確かに“何か”があったのだと、Googleが証明し続けているかのようだ。
ストリートビュー逆行テクニック
Googleストリートビューには、ひとつの“癖”がある。ある地点では古い画像が表示されるのに、少し進んだ場所では最新の画像に切り替わる。プランタン跡地でも、それが起きていた。
正面から見ると、そこにはいまだ「プランタン」が存在している。しかしそのまま矢印を進めて道を曲がると、突如として風景が切り替わり、最新のマンションが姿を現す。いったいどういうことか――。
実は、ストリートビューは「撮影ルート単位」でデータが分かれており、交差点や分岐点を境に、異なる年の画像が“断層”のように混在していることがある。そのため、更新されていない地点から「少し逆行」することで、突然別の年の画像にジャンプできるのだ。
この現象を知っていれば、ネット上の街を“時間旅行”のように探索することができる。プランタンの場合、正面から見れば7年前の姿、横道から逆行すれば新築マンションの現在――まさに“時空の狭間”にある喫茶店なのだ。
このようなテクニックは、過去の建物や風景を調べるうえで非常に役立つ。都市の記憶を辿る探偵のように、デジタル地図の裂け目をかいくぐることができるのだ。
記録者としてのまなざし
「プランタン」は、大きな話題になることもなく、ひっそりと街から姿を消した。記録もほとんど残らず、内装の写真すら見つからない。しかし、それでも私は、そこにたしかに一軒の喫茶店があったことを知っているし、お店が営業していた時には頻繁に立ち寄っており、その店プランタンはずっとそこにあり続けるものだと無意識に思い込んでいた。
記事にしたきっかけは、偶然見つけたストリートビューの断片だった。すでに現実からは失われたものが、Googleの一時的な盲点に残されていた――それが妙に気になり、現地に足を運び、工事告知の写真を探し、そして再びストリートビューを遡った。
これは、失われた風景の“発掘”だとも言える。遺構ではなく、記憶のような、地層のような都市の断片を拾い集める行為。かつてそこにあったものを誰も覚えていなくても、記録を残すことで、わずかに灯りをともすことができる。
誰も注目しなかった一軒の喫茶店を、もう一度誰かに届けたい。そう思ったとき、私はようやくこの店の名前を、声に出して呼ぶことができた。
――プランタン。あなたは、たしかにそこにいた。
追記
プランタンとはフランス語で「春」を意味する「printemps」をカタカナ表記したもので、いくつかの店舗にこの名前が使われているが、本記事で取り上げたのは、2018年10月まで港区赤坂4丁目にあった喫茶店「Coffee &Drink プランタン」である。
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