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徳川綱吉正室 浄光院墓跡地 谷中霊園と徳川家霊廟の変遷

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谷中霊園内の徳川慶喜の墓の北側に、江戸幕府第五代将軍徳川綱吉の正室、鷹司信子(法名:浄光院殿円岸真珠大姉)の墓があった。平成の初めに移設され、現在は一般墓地となっている。

徳川慶喜の墓の北側に平成になってから建てられた新しい墓石が集まっている区画がある。そこが浄光院墓の跡地である。

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徳川家霊廟エリアを空から俯瞰する

確かに過去の航空写真を調べてみると、浄光院霊廟エリアが写っている。徳川慶喜の墓域と同じくらいの広さの区画に宝塔が1基建っているのが確認できる。

確認に用いたスマホアプリは

「昔の航空写真地図」である。

昔の航空写真地図 – WanaKijiji Apps

現在の地図と昔の航空写真が左右に対比して表示されるので、昔の様子を知るのにとても便利なスマホアプリだと思う。

1976年前後の谷中霊園の航空写真が最も鮮明に写っている。御裏方霊廟として正室の霊廟が集まっている不定形のエリアの南西方向である。現在は徳川浄苑として分譲中の区画にある駐車場から直線距離で100メートルほどある。

下記の航空写真は比較的新しいのもので浄光院墓は写っていない。

現在は浄光院墓は寛永寺の常憲院殿の一角にに移設されているが、寛永寺特別参拝に参加したときにちらっと宝塔を見ることができた。しかし、宝塔塔身の部分が新しくなっていたように見えた。移設される前の浄光院霊廟がどんな様子だったのか興味が湧き、写真を探してみた。

過去の浄光院霊廟の宝塔の写真は存在するのか?

東叡山寛永寺徳川将軍家御裏方霊廟として、2007年から2008年にかけて調査が行われた墓域については、本が出版されているので、墓域の様子は写真で見ることができる。

「寛永寺谷中徳川家近世墓所調査団(編)(2012)『東叡山寛永寺 徳川将軍家御裏方霊廟』(吉川弘文館)」

しかし、第5代将軍徳川綱吉の正室、浄光院墓は、すでに改葬済みということで、上記の書籍には載っていない。そこでさらに検索したところ、一冊の本を発見した。

「秋元茂陽(2008)『徳川将軍家墓碑総覧』Parade Books」である。

著者の秋元茂陽氏は、石塔文化史研究家として著名な方である。Google Booksでその一部を閲覧することができる。


同書の99ページに谷中霊園内に存在した浄光院の宝塔写真が載っている。宝塔の周りを囲む石柵が倒壊しており、荒涼たる雰囲気を感じる。塔身もおそらく劣化が進んでいたと思われ、それが常憲院殿に移設された宝塔の塔身が新しくなっている理由かと推測される。

浄光院霊廟跡地へのアクセス

浄光院霊廟跡地と言っても、完全にリニューアルされており何かの痕跡があるわけではない。そこには新しく建てられた綺麗なお墓が整然と並んでいる。
したがって、跡地を訪ねる意味もないように思われるが、過去と現在の対比を目で見て実感することで、土地に対する認識が深まる。

浄光院霊廟跡地は、徳川慶喜の墓の北側、つまり背後に位置するので、徳川慶喜の墓を目指せばすぐに位置はわかる。

鶯谷駅北口からのアクセスが比較的容易である。鶯谷駅北口を出て線路沿いを進み、階段を登って寛永寺橋跨線橋を渡る。そのまま道なりに200メートル進むと、上野桜木二丁目交差点に達する。

交差点を右折し、100メートルほどで谷中霊園内に入る。右手に御隠殿の案内図が見えたら、ほんの少し先の霊園内の小道を左折。乙10号23側の表示がある場所である。

左折して100メートルほど歩くと右手にとても背の高い墓石が見える。津山藩松平家合祀墓である。そのさらに奥に津山藩第8代藩主の松平斉民の墓が見える。

写真左側の墓石が津山藩松平家合祀墓。右奥が津山藩第8代藩主 松平斉民の墓。

そこを過ぎると石塀に徳川慶喜公墓所の案内板が取り付けられている分岐点に到達する。この石塀の内側は一橋徳川家の墓域なのだが、矢印に従って右折する。

一橋徳川家の墓の周囲を囲む石塀の南東角

右折すると前方左川に徳川慶喜公墓所の石柱が建っているのが見える。

ここを左折すると徳川慶喜公墓所の正門

石柱を通り過ぎて突き当たりまで進むと、そこが浄光院霊廟跡地である。訪問に当たっては、ここは墓所であり単なる観光地ではないことに注意したい。

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