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日本最古の居酒屋・酒屋。「東京の変貌と歴史を解き明かす『鍵屋』— 江戸から現代へ続く酒屋の足跡

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『鍵屋』の歴史とその意義:昔ながらの日本の酒屋と居酒屋の物語

この記事は、一軒の建物『鍵屋』の移転、移築の経緯を検証しつつ、東京という都市の変遷について考える一助とすることを目的として書かれている。

まず、鍵という言葉の意味の歴史的変遷をたどることで、江戸時代の『鍵屋』から現代の鍵屋の違いを認識するひつようがある。
江戸時代の「鍵屋」という名前の酒屋、神社の狐が鍵をくわえる理由、そして現代の鍵屋は、それぞれ異なる文化的な背景や意味合いを持っている。江戸時代の鍵屋は商売繁盛や縁結びを願う心から縁起の良い字を店名に用いたものであった。一方で、神社の狐が鍵をくわえる姿には、稲荷神の眷属としての役割や五穀豊穣、縁結び、開運への願い、稲荷神の化身としての意味が込められている。

江戸時代の家屋では鍵の使用が限られ、木戸や板戸が主流だったが、重要な財産を保護する場所には鍵付きの錠前が取り付けられていた。この時代の鍵は現代のものに比べて構造が単純で、縁起の良い意味合いで用いられることが多かった​​​​​​。

現代における「鍵屋」という言葉は、住宅や車の鍵を作成、修理、交換する業者を指す。これは、時代と共に鍵の意味合いが変化してきたことを示している。現代ではセキュリティの向上と防犯対策の重要性が高まり、鍵屋はこれらのニーズに応える専門の技術を持つ業者として認識されている。鍵という言葉が持つ意味は、時代の変遷とともに変化し、文化や社会の変動に影響を受けてきた。

したがって、江戸時代の「鍵屋」の名前、神社の狐が鍵をくわえる象徴、そして現代の鍵屋は、それぞれが時代の文化や信仰、社会のニーズに根ざした深い意味合いを持つものであり、日本の伝統や文化、そして社会の変化を物語っている。これらは単なる物理的な鍵というよりは、それぞれの時代において幸運や繁栄、保護、セキュリティの象徴としての側面が強調されていることが分かる。

1.鍵屋の歴史とその起源

皆さんは「鍵屋」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?家の鍵を作る職人さん?それとも、あるいは花火師の屋号?実は、この「鍵屋」には深い歴史と意義があります。それは、日本の酒屋と居酒屋の歴史を語る上で欠かせない存在なのです。

この記事では、「鍵屋」の起源とその変遷、そして現在の姿について詳しく探っていきます。また、「鍵屋」がどのようにして日本の飲食文化や社会に影響を与えてきたのか、その背景に迫ります。

皆さんが「鍵屋」を訪れる際、あるいは日本の古き良き時代を偲ぶ際の参考になれば幸いです。さあ、「鍵屋」の世界を旅してみよう。

古い建築物は年々少なくなっていく。そのため、現存する昔の建築物は逆に貴重な存在となる。昭和の面影を残す居酒屋の建物も徐々に消えつつある。しかし、逆に江戸時代にその歴史をさかのぼることができる建築物も存在する。同じ場所で長く営業してきた店という点では、千代田区の「みますや」が挙げられる。最古の居酒屋というキーワードで検索すれば、「みますや」が真っ先にヒットするはずだ。東京最古、あるいは日本最古というキーワードでも良い。

現在の台東区根岸の『鍵屋』大正時代の建物をベースに作られている

2.鍵屋とみますや:日本最古の居酒屋

ここで比較される『鍵屋』と『みますや』において重要なのは、『鍵屋』はもともと酒屋であり、居酒屋ではなかったということ。そして、『みますや』は居酒屋だったということだ。結論から言うと、酒屋としては『鍵屋』が古く、居酒屋としては『みますや』が古い。しかし、現在どちらも居酒屋を営んでいることから考えると、その起源は『鍵屋』のほうが古いと言える。

お店の人の話によると、昭和二十四年に酒屋から居酒屋になり、酒販免許を返納したという。酒屋の一角で酒を提供するようになったあたりに居酒屋の起源があるのだから、その年代は昭和の初期である。

しかし、同じ場所でという条件と、酒屋と居酒屋の違いを除いて店として比較すると、「鍵屋」が最古と言える。また、創業が江戸時代、安政3年(1856年)だというから、「みますや」よりもはるかに古い。違いは二点あり、ひとつは「鍵屋」が居酒屋ではなく、酒屋だったという点。もうひとつは、鍵屋は元の場所から200メートルほど離れた場所で現在は営業しているという点である。

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鍵屋の移転の原因は東京都の道路整備、言問通り拡幅工事によるもの

3.鍵屋の移転:東京都の道路整備とその影響

東京都では、都道の拡幅工事などを計画的に行っている。「鍵屋」は台東区下谷二丁目(旧坂本二丁目)の言問通りに面していたという。東京都建設局第六建設事務所を経由して、東京都建設局道路建設部計画課に問い合わせたところ、言問通りの寛永寺陸橋から昭和通りにかけての850メートルに渡る区間は1966年に工事が認可され、1980年に完了しているという。しかし、詳しい工事図面などは現在では残っていないとのことだ。

拡幅工事によって「鍵屋」は移転を余儀なくされた。しかし、その建築物の歴史的価値により、鍵屋のオーナーの清水幸太郎氏によって、東京都小金井市の小金井公園内の武蔵野郷土館に移築された。

移築されたのは昭和50年頃(1975年頃)だが、その後武蔵野郷土館は、江戸たてもの園に変わった。しかし、「鍵屋」は現在も江戸たてもの園に存在し、見学することができる。移築後も、補修工事などが行われているため、江戸時代の建築材料ですべて作られているとは言えないが、建物内部には確実に江戸時代の空気感が横溢しているように感じられる。

4.鍵屋の現在:台東区根岸三丁目

現在の「鍵屋」は台東区根岸3丁目にあるが、1974年(昭和49年)頃に下谷二丁目(旧坂本町二丁目)から移転したとみられる。鍵屋は、鍵屋橋本商店という文具店あるいは、和紙問屋と勘違いされることもあるようだが、1974年頃まではその鍵屋橋本商店と隣接していた。

根岸の『鍵屋』の位置、言問通りから内側に入ったところに建てられており
拡幅工事の影響は受けない。

5.鍵屋と鍵屋橋本商店:混同しやすい二つの店舗

両者は経営者が異なり、東京都台東区根岸3丁目6−23−18の「鍵屋」のほうは有限会社鍵屋であり、同じく言問通りの拡幅工事によって台東区根岸3丁目1−8に移転した「鍵屋橋本商店」は合資会社鍵屋橋本商店である。また同じく台東区寿にも株式会社鍵屋が存在するが、こちらもまた別業種である。

ちなみに現在インターネットで鍵屋と検索すると、家の玄関の鍵(Key)、英語でいうところの「locksmith」が当たり前のようにヒットする。しかし、もともと鍵屋とは、江戸時代の花火師の屋号の「鍵屋」が由来で、花火大会では「かぎやー」の掛け声を聞くことができる。これは18世紀江戸時代中期の花火師「鍵屋六代目弥兵衛」にまでさかのぼる。しかし、ここではそのことは詳述しない。

話を現代に戻し、下谷二丁目(坂本町二丁目)時代の「鍵屋」がどういう場所にあったのかを考えてみよう。

1973年のゼンリンの住宅地図を見てみると、協和銀行鶯谷支店の南に「鍵屋」の表示が確認できる。確かにこのあたりに、鍵屋はあったのだろうが、少し表示があいまいなのが気になる。ちょうど言問通りの拡幅に伴い店舗などの移転作業が行われた。

話を現代に戻し、下谷二丁目(坂本町二丁目)時代の「鍵屋」がどういう場所にあったのだろうか?

1973年のゼンリンの住宅地図を見てみると、

1973年ゼンリン住宅地図の台東区下谷二丁目、根岸一丁目交差点付近の様子。協和銀行鶯谷支店の南に「鍵屋」の表示が確認できる。

確かにこのあたりに、鍵屋はあったのだろうが、少し表示があいまいなのが気になる。ちょうど言問通りの拡幅に伴い店舗などの移転作業と重なっていた時期であったことも関係しているのだろう。

ほかの資料をあたってみる必要がある。

台東区立中央図書館は歴史的に価値のある郷土資料調査室がある。そこにある過去の住宅地図を見ると以下の通りとなる。

1973年台東区立中央図書館所蔵の地図 言問通りの根岸一丁目交差点の協和銀行坂本支店の
南がわの建物には、「鍵屋橋本文房具」と記載されている。

この二枚の地図を比較してみると、根岸一丁目の北東の角にあった「鍵屋」は文房具店だったということになる。では、東京都小金井市の小金井公園の江戸たてもの園(武蔵野郷土館)に移築された「鍵屋」はどこにあったのかということになる。

確かに江戸たてもの園の案内板には下谷二丁目から移築されたと書かれているし、現在根岸三丁目にある「鍵屋」の方から聞いた通り言問通りに面していたということも明らかである。

場所を特定するためには、現地へ行って当時を知る人に直接聞くのが一番確実だ。

下谷二丁目と根岸三丁目の現地調査で文房具店と酒屋の「鍵屋」の場所を特定した

現地は、50年前と状況が変わっているとは言え、その当時の建物の内何件かは近隣に移転して2023年時点でも残っていることがわかる。また、その当時を知る人もいるということになる。

そこで現地調査をおこなったところ判明したのが、以下の航空写真地図である。

1971年国土地理院航空写真 鍵屋橋本文房具店の前の言問通りは片道一車線の道路であったことが確認できる。

小金井公園の江戸たてもの園に移築された「鍵屋」は1971年時点では、根岸一丁目交差点の北東の角の鍵屋橋本文具店の右に隣接していることがわかった。上の航空写真は鶯谷駅との位置関係を表しているため、細部が見づらいので、拡大した写真も載せておこう。

1971年国土地理院航空写真より、言問通りが鍵屋の前は片側一車線、車線の数は、
往復(両側)の合計で数えることになっているという法令に従えば、二車線道路だった。

現地に住み50年前を知る人の話を伺ったところ、鍵屋橋本文具店は根岸一丁目交差点の角にあり、それに臨戦つして鍵屋があったとのことなので、法務局の公図を調べてみた結果、以下の成果が得られた。

東京法務局 台東出張所で入手した公図によると、2-29が鍵屋橋本文具店、2-30が酒屋の鍵屋だとわかる

実際に距離を測ってみても、小金井公園江戸たてもの園の縮尺の描かれた建物平面図ずと一致しているし、形状も一致しているため、角にあるのが鍵屋橋本文具店で、その右に隣接しているのが、酒屋の鍵屋であることは間違いがない。

地積測量図も入手できたので載せておくが、この建物の形状と長さは一致している。

鍵屋が言問通りに面していた時の地積測量図、江戸たてもの園に移築された鍵屋の前に設置されていた建物平面図の寸法と一致している。

この建物は完全な長方形ではなく、上下左右が不均衡な台形的な形状をなしていることからも、特定できる要因になった。現存する江戸たてもの園の鍵屋の案内板には縮尺の表示がないのだが、2020年頃の江戸たてもの園の鍵屋の案内板には縮尺の表示があった。

また江戸東京たてもの園にも問い合わせたのだが、北を示すマークがあり、移築前の鍵屋の建物に対して北はちょうど真上の方向にあたるとのことだったが、この地積測量図のノースアロー(北を示す矢印)によると、角の斜めの線の方角が南北にほぼ一致していることがわかる。さらに詳しく言うなら、建物を三角形に分割したラインによってできる区画(ロ)の高さ3.86のラインが移築前の鍵屋のほぼ南北のラインを表している。

2020年当時の小金井公園 江戸たてもの園の前にあった案内板には縮尺の表示があった。
それによると、底辺が約9メートルとなるが、その長さは地積測量図の9.13メートルにほぼ一致している。

言問通りはどのように拡幅され、移築、引っ越した建物はどの位置にあったのか

1971年の航空写真で見る限り確かに存在した建物は移築されたり、引っ越したのだが、現在の航空写真や地図ではどの位置にあったのだろうか?

1971年の航空写真を現在の国土地理院地図に重ねてみると、元の場所がわかる。言問通りの拡幅により、引っ越しや移転を余儀なくされたのだから、現在は道路になっている場所に建物は存在したことは明らかだ。では道路のどのあたりに存在したのだろうか?

2023年の国土地理院地図に1971年当時の根岸一丁目交差点の建物の形状を描いた図

1971年時点では下谷二丁目付近の言問通りは往復二車線だったのだから、上に載せた地図のように、鍵屋橋本文房具店も酒屋の鍵屋も、道路や歩道の上に立っていたことになる。

現在の航空写真も載せておこう。

2023年現在の国土地理院航空写真に当時の建物の位置を描いた図

根岸一丁目交差点の地図や航空写真を見れば一目瞭然だが、交差点の角の建物は現在では道路や歩道の上に建っていたことがわかる。都道になっているのだから、すでに当時の地番は滅失している。

1973年の地図においては、鍵屋橋本文具店は存在することになっているが、1974年の地図では空き地になっている。つまり、鍵屋橋本文具店は昭和46年(1971年)から昭和49年(1974年)頃にかけて、根岸三丁目に移転したとみられる。鍵屋に隣接する酒屋の鍵屋はまだ残っていたようだが、昭和53年(1978年)頃には鍵屋橋本文房具店の並びはすべて空き地になり、立ち退きが完了し、1980年(昭和55年)には言問通りの下谷二丁目の拡幅工事が完了したことが地図からも読み取れる。

場所が変わっても「鍵屋」の歴史は途切れずに続いている

鍵屋という名前そのものは、花火で有名な鍵屋初代弥兵衛が日本橋横山町で店を開くところから広まっていったと推測されるが、花火屋の鍵屋と、台東区の酒屋鍵屋、文房具店(和紙問屋)の鍵屋とは特に関連性はみられない。鍵屋初代弥兵衛と台東区根岸の鍵屋の間に直接的な関連性を示す確たる証拠はみあたらない。

だが、鍵という言葉は英語でもKey pointキーポイント(問題や事件を解決するために最も重要な手がかりとなる点)という使い方をするように、とても縁起が良い言葉であり、伏見稲荷大社の狐が鍵をくわえているのも、鍵には成功の秘訣といった意味で成功の鍵などのように良い意味で使われるので、商売の繁盛にもつながっていく言葉だ。

言問通りの拡幅工事によっても、姿を消すことはなく、当時の様子を忠実に再現するように、酒屋の「鍵屋」は小金井市の武蔵野郷土館(現 江戸たてもの園)に移築されて、当時の姿を維持するための補修工事もたびたび行われている。

またお店としては、北西方向に約200メートル離れた根岸3丁目の路地に建っている大正時代の建物へ引っ越し当時の雰囲気を今に伝えている。

2023年秋、台東区根岸3丁目で営業中の鍵屋
東京都小金井市の小金井公園内にある江戸たてもの園に移築され公開されている鍵屋の内側

6.鍵屋の建築物:江戸時代の空気感を残す

このように、台東区根岸3丁目で営業している「鍵屋」と、小金井市の江戸たてもの園に移築されている「鍵屋」を並べて眺めてみると、1970年台に移築される前の鍵屋、そして下谷二丁目から根岸三丁目に引っ越した「鍵屋」が言問通りを通じて一つにつながっているように感じられる。そう感じるとやはり台東区根岸の「鍵屋」がお店としては一番古い、最古の店ではないかと思う。

根岸一丁目の交差点に建っているコンクリートのマンションを眺めていると、その背景にある鍵屋の歴史が蘇ってくる。

台東区根岸の鍵屋は、安政3年(1856年)に酒問屋として創業し、店名は「鍵屋酒造」だった。根岸の宿場町で旅人や住民に酒を供していたが、明治時代に入り店の一角で酒を飲ませるようになったことに端を発して居酒屋となり、昭和49年までその地で営業を続けた。そして、大正元年築の日本家屋を改装した根岸三丁目の現在の店舗に移転した。

.鍵屋の未来:移転と再構築

旧店舗は、その歴史的価値ゆえ、東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」に移築されている。

鍵屋は、江戸時代から多くの人々に愛され続け、店内は、木造の梁や柱がそのまま残されている。

鍵屋は、江戸時代から続く歴史と伝統を守りながら、現代に生きる人々にも愛される居酒屋として、これからも地域に根ざした存在でありつづけるだろう。

この場所に鍵屋はあった。2023年12月撮影。ちょうど横断歩道を渡った信号の下あたりである。

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