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登山の軌跡:戦後から現代への山々との歩み

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追憶の山々

前書きに代えて

私は登山を始めたのが、太平洋戦争終結翌年の昭和21(1946)年夏、旧制中学(夜間、大学まで)の仲間と出かけた西丹沢玄倉山でのキャンプからである。それ以前の山登りの記憶はない。あるのは空襲と軍需工場での労働、そして食糧難の貧しい生活だけである。

次いで翌年夏、勤務先の仲間に誘われて、東京岳人倶楽部の穂高岳涸沢合宿に参加した。このころ、どこか東京近辺の山登りや沢登りに出かけているかもしれない。しかし記憶がほとんど消えている。そしてその後、岩登りを志向する雲表倶楽部に所属した10年余り、大学の学友との交流とともに、登山は私なりの遅れてきたやや長い青春だった。

こうして登山が趣味になったが、私はそれほど多くの山に深く、先鋭的にのめり込んでいかなかった。振り返って50数年間、私の山登りは、押しなべて一登山愛好者に過ぎなかった。岩登りも冬山も一応経験したが、かじった程度でたいしたことはない。また、多分に漏れず中断の時期もあった。私なりの情熱を注いだり、執念を燃やした山はあったが、記録に挑戦するとか、ピーク・ハンターを目指すという気持ちはなかった。山行回数も山行内容、地域もそれほとではない。山へ行くことは逃避的側面の時期もあった。まあ自分の背丈にあった山遊びをしたと思っている。

山スキーは上信越・北アルプス・東北などに出かけた。残雪を利用して夏山で行かれないところをツアーした。スキーは下手だが、それなりに楽しく駆けめぐった。

戦後、登山は大衆化が進み、特に深田久弥の名著『日本百名山』が1964(昭和39)年に発刊されて以来、理由はそれだけではないが、次第に中高年の登山者が増加して、旅行業者なども加わって百名山ブームが続いている。女性の参加も顕著で、力量も男性に劣らない。登山人口が増えて、高い雪山を除いて、天気が良ければ人に会わない山はないといってよいくらいである。しかし若者には労多くして楽しみ少なし、で、人気がないようである。

私もそうした流れの中で山の会や学校、勤務先の仲間たちと山を楽しんだ。単独行も結構ある。そして私なりの印象に残る山、忘れられない山行がいくつかある。そこですでに発表した文章を含めて、少し整理してこれまでの山々の追憶を試みてみることにする。記憶もかなり減退しているが、できる限り思い起こしてみる。ある程度の推測は避けられないが、フィクションの陥穽にはまらないように気をつけたい。もう一緒に出かけた仲間も、大半が音信不通に近いか、故人となってしまった。古い資料もわずかに残っているが、大部分が散逸してしまった。写真は少しある。引っ越しのときなどに整理してしまい、残念なことをしてしまったと思っているがやむを得ない。

登山は、山という自然の中で山頂とともに登降の過程を楽しむスポーツであり、自然との対話、協調をはかり、精神的浄化作用が体験できる文化的な行為でもある。スポーツといっても、ご存知の通り他のスポーツとは大いに異なり、一般的に明確なルールも競技性もない。観客もいない。登山行為する者の主体的内容がすべてで、したがって自由で自己満足の傾向が強い。どんなに苦しんでも、危険に遭遇しても、自己責任の無償の行為である。

今日の登山は時として批判されることがあっても、客観的に評価されたパイオニア・アドベンチャーの時代は終わっている。私が言うまでもなく、評価される登山行為—対象となる山、ルートからの登山・登攀—がもう無くなってしまったのである。これからは、まさに多彩な楽しみをエンジョイする大衆登山の時代である。海外の山によく行く人が私に言ったことがある。「今日の登山は、ある程度の体力(技術)とお金と時間とそして登る意欲があれば、エベレストを含めてたいていの山は登れる(登らしてくれる)…」と。

これからも多くの自然愛好者は自分の登山を楽しみ、それなりの満足を求めて出かけることだろう。ひととき都会的実生活から離れ、自然の一部でもある人間が登山という身体的、精神的行為の中で、その自然との(また自然の中での人間相互の)融合・交歓、時には美に酔えるからだろうか。苦しく厳しいときも、優しく懐に抱かれているときも…。、私の登山もそうしたものだった。

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