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懐かしの西丹沢玄倉川キャンプ:昭和から令和への丹沢自然変遷記

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太平洋戦争敗戦後、しばらくの間は表丹沢も西丹沢も、東京からは小田急線の新宿から主に渋沢駅で下車して歩いた。バスが大倉の登山口に入るようになったのは、かなり後になってからだと思う。私の記憶ではほとんどが最終電車に乗り、暗いうちから歩き始めた。駅前に店があって、沢登りの連中はここでワラジを買ったりした。大半のハイカーは塔ノ岳の山登りか水無川の沢登りで私も水無川の各沢やその他のいくつかの谷の沢登りを楽しんだ。四十八瀬川の勘七ノ沢と西丹沢の同角沢については後で述べる。

小田急線渋沢駅から雨山峠へ

丹沢飴山峠から富士山を臨む

はじめに、懐かしい西丹沢玄倉川のキャンプについて思い起こしてみる。中学の仲間4、5人で暑い盛りに出かけた。案内役は北沢一男でいいだしっぺでもある。彼は私と同じ下町の住人で、すでに雲表倶楽部という岩登り志向の山の会に入っていて山の経験を積んでいた。年は少し年上だったかもしれない。

渋沢駅で下車して間もなく、ランタンをぶら下げて夜の山道を歩いた。低い峠を越え、宇津茂(うづも)から寄(やどりき)沢に沿って進み、やがて次第に明るくなった山道を登り狭い道も急登になり雨山峠(あめやまとうげ)へ達する。さほど大きくない峠に飛び出すと、眼前に圧倒的な富士山があらわれる。私にとって初めての感動的な美しい富士山を見た瞬間であった。しばらく大きな秀麗富士を眺めながら休んだ。ここから一気に降りると玄倉川の左岸の河原で砂地と石や岩の混じったやや広いところに出た。右から左へ玄倉川がごうごうと流れていた。

私たちはキャンプファイヤーのできるところを選んでテントを張った。みんな裸足になってはしゃいだ。流木や枯れ木がやたらに多い。それを集めたり、水溜りのオタマジャクシの黒い塊に驚いたりして好き勝手に遊んだ。また、木陰に寝転んだりして休んだ。

午後になって私と北沢は少し下流の同角沢を見に渡渉しながら出かけた。沢の出会いは花崗岩に囲まれて10メートル位の滝がかかっている美しい光景だった。後に彼と2回ぐらいこの沢登りに出かけることになる。テント場に戻ると夕食の準備である。炊事道具は飯盒と鍋である。火は石で囲んだ焚き火だ。何を食べたか記憶にない。覚えているのは食後のキャンプファイヤーである。

燃えくさの乾燥した枯れ木や流木は豊富で大小様々である。それを人間の高さ以上に山積みして燃やしたからもの凄い炎が立ち昇った。私たちはその周りで歌い踊った。どのくらいの時間大騒ぎしたか、原始的環境で原始人のような、と思わせる開放的なひと時は、最初で最後の、その後はもう体験することができなかった。

幼稚で単純かもしれないが、戦後の開放感を大自然の秘境の中で満喫し、10代の終わり頃の忘れられない思い出である。翌日往路を戻って帰京した。2日間天気が良かった。

玄倉川流域の現在の状況

雨山峠を越えていく道 国土地理院地図より

ところで現在の玄倉川はどうなっているのだろうか。あれから70年近い年月が経っている。その間に高度経済成長の時代があり、長かった波乱の昭和から平成、令和に移った。

そしてこの丹沢の自然も大きく変化した。バスが山の登り口まで入るようになった。玄倉川の下流域に丹沢湖なる大きな水がめができ、林道が玄倉川左岸沿いにのびて、地図を見ると熊木沢あたりまで行っている。同角沢の下流に玄倉ダムが出来ている。もうあの当時の原始的秘境の面影もないだろう。むろん渋沢から遠路歩く必要がなくなった。

1999(平成11)年8月のお盆ころ、、熱帯性低気圧が関東地方を通過して大雨を降らせた。そのため玄倉川が、増水し、玄倉ダムはやむを得ず放流、増水したとのこと。そして当時丹沢湖上流の河原にテントを張って、お盆休みを楽しんでいたキャンパー18人が濁流に飲み込まれ、13人が命を落とした水難事故の記憶はまだ新しい。これは多くの問題と教訓をなげかけた。

昭和初期の国土地理院地図 丹沢雨山峠付近

勘七ノ

勘七ノ沢は北沢が参加しなかったと思う。中学仲間の3、4人と渋沢駅で下車して四十八瀬川沿って2時間ほど歩いた。現在は鍋割山方面へ、出合の少し先まで林道が入っている。私は数年前、塔ノ岳から、鍋割山を経由してこの林道を降り、大倉バス停まで歩いたが、年のせいか疲れて、思ったより長い単調な道にうんざりした。あのころは林道もなくどう歩いたか今は明らかではない。山道はいくらかのアップダウンがあっても、現在の林道よりも距離は短かったかも知れない。いずれにせよ、勘七ノ沢出合いで朝食を摂り身支度をととのえた。

よく覚えていないが、河原を少し行くと右から滝のある枝沢が入り、すぐに滝が現れる。5メートルぐらいか。天気が怪しくなり小雨が降り出した。水をたたえた滝壺に滝が岩場を滑るように落下していて、その左手の濡れた壁を登ることになる。いきさつはもうわからないが、背の高いFがトップで登り始めた。ところが壁の半分も登らないところでスリップし、滝壺の端に落下してしまった。腰を少し打って下半身を濡らし、相談の結果、天気の心配もあって、ゆっくり下山することにした。予定では大倉尾根の花立というとろこに出て下山するはずだった。

その日私たちは夕方になって、Fを、家まで送った。腰の痛みはそれほどでなかったので歩けた。Fのおふくろさんに挨拶程度で直ぐ帰るつもりが、引き止められ座敷に上げられた。焼き芋などをご馳走になり、説教というほどのものではなく、要するに「山は危険で、まして滝登りなどはとんでもない」ということだったと思う。彼らとはその後山に行かなくなった。

同角沢の思い出

北沢と出かけた同角沢についても触れよう。1950年頃だった。キャンプの時と同じ事コースで雨山峠から玄倉川に降り、同角沢に入った。岩登りの道具は用意した。それを何処でどう使ったかはともかく、綺麗な沢をいくつか超え、水は花崗岩と緑がかった美しい石英閃緑岩の上を流れて、天気の良いときは快適であった。最後の大げさな名前の「遺言棚の大滝」は、印象に残っている。確かここはアンザイレンして中段の棚上のところを、右から左へ横断というかトラバースした。滝の裏側の通過しぶきをかなり浴びたように思う。別の日のあまり天気の良くないときに、ここで単独の大学生に会ったこともある。あと付近の谷にも入ったが、忘れてしまった。

丹沢で一番多く入った沢はやはり水無川で、女性も多く登る本谷のほか枝沢にも登った。とくにもみそ沢という、水無川支流の小沢は、小滝の連続する、暗くて狭いゴルジュ状の急登で水が少ない。短時間で大倉尾根に出られる。この沢の入り口右側に15メートルの岩登りの練習場があり、岩場が混んでいるときにモミソ沢を往復したりして、時間をつぶしたことがある。

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水無川流域の

水無川も現在は川沿いに林道がモミソ沢の上流まで通じている。大倉尾根は途中に生抜きの踊り場の少ない、登りが降り一辺倒の長い道のりから「馬鹿尾根」と呼ばれていたが、今は木の階段が長々と続いて、まさに馬鹿尾根になったそうである。

私が最初に水無川を詰めて、塔ノ岳の山頂に登ったとき、ガスがかかり、霧雨模様だった。山頂の奥にぼんやりと崩壊した尊仏小屋(山荘)が現れたのには不気味さを感じた。今は立派な山荘とともに山荘前が休憩場所として整備されている。

追憶の山々
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