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東京の路地を渡る:樋口一葉の15回の引越しとその文学への影響

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樋口一葉は、生涯を通じて15回の引越しをした。24年間の人生で15回、それらがすべて東京の中での引越しである。引越しの理由の多くは親の事情であったのだろうが、一葉自身の考えによる引越しもあったようだ。

一葉は東京のどのエリアで、どのくらい期間を暮らしたのだろうか?もしかすると、東京での多くの引越し経験が一葉作品に影響を与えているかもしれない。

そうだとしたら、どんな形で作品の中にそれが反映されているのだろうか?

まずは、一葉の引越し履歴を整理することから始めてみた。

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樋口一葉、15回の引越し歴

1872年5月2日(旧天保暦明治5年3月25日)内幸町1丁目に生まれる。(現・千代田区内幸町)

  • 1-1872年9月 0歳4カ月、下谷練堀町43番地に一家は自宅を購入して転居(現・千代田区神田)
  • 2-1874年2月(明治7年)麻布三河台町の屋敷に転居(現・港区六本木)
  • 3-1876年4月、4歳、本郷6丁目法真寺の門前に転居(現・文京区本郷)

1877年3月公立本郷小学校入学、3月末に1カ月で退学

1877年8月私立吉川小学校入学

1881年4月私立吉川小学校退学

  • 4-1881年7月(明治14) 、下谷区御徒町1丁目14番地へ転居(現・台東区台東)
  • 5-1881年10月(明治14)、9歳、下谷区御徒町3丁目33番地へ転居(現・台東区東上野)

1881年11月、池の端青梅小学校へ入学

1883年12月(明治16)、青海小学校高等課第4級を首席で卒業

  • 6-1884年10月、下谷区上野西黒門町2番地の持ち家に転居(現・台東区上野)

1887年に兄、泉太郎が死亡、父は6年ほど勤めた警視庁を退職

  • 7-1888年5月、芝区高輪北町の借家(次兄の家に同居)に転居(現・港区高輪)
  • 8-1888年9月(明治21)神田区表神保町へ転居(現・千代田区神保町)
  • 9-1889年3月、神田区淡路町に転居(現・千代田区淡路町)

1889年7月(明治22年)父、則義7月に死去

  • 10-1889年9月、芝区西応寺町の次男虎之助宅へ転居し、同居する(現・港区芝)
  • 11-1890年5月(明治23年)、歌塾「萩之舎」(小石川区小石川水道町)に於ける和歌の師匠中島歌子の内弟子として中島家に寄宿(現・文京区春日)
  • 12-1890年9月本郷区本郷菊坂へ転居(現・文京区本郷4丁目)路地の入り口から見て左側、井戸の左側(現・文京区本郷四丁目)
  • 13-1892年5月、向かい側の家に転居。前の家より部屋数が1つ多かった。路地の入り口から見て右側、井戸の右側(現・文京区本郷四丁目)
樋口一葉が使ったとされる井戸
  • 14-1893年7月(明治26年)、21歳樋口家三人は本郷菊坂から下谷竜泉町の茶屋町通りに面した長屋に引っ越し。荒物、駄菓子屋を営む(現・台東区竜泉)
台東区竜泉の樋口一葉旧居跡

台東区竜泉の樋口一葉旧居跡

  • 15-1894年(明27年)5月文京区丸山福山町に転居。終焉の地となる(現・文京区西片)
一葉が通った伊勢屋質店 建物は当時のまま保存されている

1896年11月23日(明治29年)24歳で死去。

以上が樋口一葉の引越し履歴である。

樋口一葉はどこでどれだけの期間暮らしたか

千代田区 2年9カ月
文京区 10年11カ月
港区 3年2カ月
台東区 7年8カ月

こうしてみると、樋口一葉は文京区で暮らした期間が1番長いが、台東区も竜泉寺時代の10カ月だけではなく、上野周辺にも長く暮らしていることがわかる。
千代田区や港区にも暮らしていたが、樋口一葉の『うもれ木』は港区芝で暮らした次兄の虎之助がモデルになっている。だが、虎之助の家の跡地には石碑はない。
千代田区は樋口一葉生誕の地として、内幸町の千代田区立内幸町ホール前に記念碑が建っている。
台東区や文京区で暮らしていた時には、上野の図書館にもよく通ったようである。現在の国際子ども図書館に通っていたと認識されているようであるが、樋口一葉が通った図書館は別の建物で、国際子ども図書館の南西方向にあった「東京図書館」に通っていたのである。現在の東京芸術大学の敷地内に煉瓦造りの旧書庫が残っている。

一葉が通った旧東京図書館
現在は東京芸術大学 赤レンガ2号館

現在の国際子ども図書館の建物は明治39年(1906)の建築だが、樋口一葉は明治29年(1896)に亡くなっている。

樋口一葉が図書館通いを始めたのは1891年6月(明治24)からである。
一葉の日記『若葉かげ』の1891年6月の記述に図書館が初出するのだが、当時の図書館で本を閲覧するのは有料だった。
一葉は経済的には困窮しながらも、図書館通いを続けていたのだ。
もちろん、『たけくらべ』の着想のベースとなった台東区竜泉時代にも上野の図書館に通っていた。
樋口一葉はとても勉強熱心な人だったのだ。

樋口一葉はクールに東京を生きた  

樋口一葉は生涯を東京の外に出ずに暮らしたようであるが、24年半という時間の中で、都内で15回の引越しという普通ではなかなか出来ない経験をした。引越しをするだけならともかく、そういった東京の空気を十分に作品に昇華させているのが素晴らしい。明治時代の東京をクールに生きた天才と言えるだろう。

名所
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コメント

  1. 大宮正嗣 より:

    樋口一葉の時系列の引越し一覧が欲しかったので、このサイト見つけてとても参考になりました。ただ記事内で一点「6-1884年10月、下谷区上野西黒門町2番地の持ち家に転居(現・台東区上野)」とありますが、これはどこの史料にありましたでしょうか。
    龍泉の一葉記念館に田中みの子から一葉(樋口夏子)に宛てた葉書が展示してあって、その宛先には「下谷西黒門丁二十番地」とあって、明治29年(1896年)発行の下谷区の地図を見るとどら焼きのうさぎやの区画あたりとなります。

    • Sunny より:

      ご質問の件ですが、出典は、和田芳惠『一葉の日記』(筑摩書房、1956年),20ページ、4行目です。

      ただし、ここでは、下谷黒門町二十二番地と記述されています。
      調べていくと、他文献には、二番地、二十番地と記されているものもありました。

      この記事を書いた当時の詳細は忘れてしいましたが、3通りの番地に共通する、ニという数字を選んだのではないかと推測します。

      出典の書籍の写真はメールでお送りいたします。